2003年高畑勲トークショーメモ

高畑勲氏の講演内容です。眠らせておくのも何なのでここで公開。具体的な日時は忘れてしまったのですが、2003年の春頃、場所は東京都写真美術館。聞き取りを元に再現したので細部に間違いがあるかもしれません。あと、もし権利問題が派生したらすぐ消去します。

・日本のアニメーション、及び最近のハリウッド映画(例えば、近年のスピルバーグ作品等)では、子供を主人公にした作品が非常に多い。

・そこで描かれる子供は非常に理想化されており(一種の超人である)、主人公である子供は、大人社会に当たり前に出ていき、大人顔負けの活躍をする。

・その子供に対して、30を超えた大人達は当たり前に同化・感情移入している、これはちょっと異常なことではないか。一種の無垢的な存在である子供を主人公に据えると、簡単に感情移入・同化することができ、観客の能動的な思考能力を奪うことが多く、麻薬的であり、危険な物ではないだろうか。

・かつての、日本やアメリカのヒーロー像は、大人(月光仮面・スーパーマン)であった。日本は戦後政策の中で新しい世代(子供)への過度は期待感から、アメリカにおいては、ヴェトナム戦争以降に、西部劇がまったく作られなくなり、ここでも若い世代を主役に添えた作品が多数作られることとなったのではないだろうか。

・『千と千尋の神隠し』は、究極の巻きこまれ型ファンタジーである。主人公である千尋に感情移入することで、楽しむことが前提となっており。映画内での表現・事象に論理的な裏付けを持たない。千尋に感情移入できない観客はこの映画を楽しむことはできないだろう。

・アニメーションに関わらず、映画等においても、「感情移入」が一つのポイントとなっており、「感情移入」をさせてもらえない作品には「させてもらえない」ことで批判されたりさえする。「感情移入・同化」して、ただ受動的に「泣く・感動」といった作品が増えているのには危惧をおぼえる。これはディズニーランド等の、テーマパークのようでもある。

・映画に対して、能動的に考える、感情移入するにしても能動的に移入するといったことが大事なのではないだろうか。作品に対して自分から考え、批判的・客観的に見ることが大切であり、本当に感動し泣ける作品は、そういった態度を通しても泣けるものだ。

・「巻きこまれ型」「感情移入型」の作品の中で理想化された登場人物により、安易に「理想」・「夢」が語られるのにも危険だ。そこでは理想と現実との対比がまったく描かれていない。昨今の話題の「引き篭もり」問題は、こうした社会のあり方に問題があるのではないのか?逆に「プロジェクトX」のような単純な現状肯定にも批判的だ。

・アニメーションの絵(セル画)は基本的に、線(輪郭)だけで形作られている。輪郭だけで形作られた物は、基本的に何かの現物の模した物としての存在から離れることはない。現物の記号・影としてしか存在しえない。逆に3DCGには輪郭が存在しえない為、それは現物として存在する。これが手書きとCGとの大きな差である。そういった中で安易に3DCGが使われすぎている。日本の絵・絵画は伝統的に、線画として存在している。アニメーションもそれを受け継いでいる。

・線画は、輪郭があり対象の現物を模した物としか存在しないが故に、人はそれに対して想像を働かせ、感情を安易に移入することができる。

・昨今のアニメーションの背景の絵は異常に写実的・精密になって立体感がある。想像を誘発する線画の人物と、想像の余地がないほど写実的に書かれた背景が共存する時、前述の巻きこまれ型ファンタジーとしての作品に成立に一役かっていないか。

・演劇を思い出して欲しい。「なんて美しい花!」とセリフがあっても、その場に美しい花があるわけではない。そうして観客が想像することが大事ではないだろうか。しかし、今のアニメーションや実写映画においては、現物以上に、美しい花を描き、写してみせる。

・今、『キリクと魔女』というフランスのアニメーション映画の翻訳・吹き替えの仕事をしている。作品では、主人公キリクは、映画内のさまざまな局面で「なぜ?」、「どうして?」を問いかける。人は、何事にも疑問や知的好奇心を持つことが大切ではないだろうか。これは、原始的なフォークロア、民話で基本的に大切にされてきたものだ。

・巻きこまれ型のファンタジー作品では、観客に疑問を持つことが許されない。例えば何かが空を飛んでいても、なぜ空を飛ぶのかとの疑問に、「その作品の世界として成立しているから」としか答えられない。映画だけの話ではなく、子供の教育に立ち帰っても、子供に考える行為を行う教育がなされていないのではないかと思う。先日、デジタルモンスターの映画を見たが、作品の世界観では空飛ぶ怪物があたりまえに存在していて驚かされた。

・ピクサ―の作るアニメーションは非常に評価している。彼らの作る作品は、主人公に感情移入を行わせながらも、同化を阻むように作られている。それは、ピクサ―の作品では、人間を主人公にしないことに現れている。

・『ホーホケキョ・となりの山田くん』は、連歌をモティーフに、原作の短編エピソードを並べることに精神を費やしたので、TV放映でCMが挿入されてしまうと、映画としての要素が打ち消されてしまう。

・『ホーホケキョ・となりの山田くん』はこの後も愛される映画になると信じている。

・映画の企画は、宮沢賢治の映画化か『平家物語』を考えている。「無情感」を表現したい。

・「巻きこまれ型ファンタジー」の話にも関連するが、宮沢賢治の作品もそういう風にに受け取られているのにも危惧を感じる。例えば、『銀河鉄道の夜』、『よだかの星』は彼が初期に書いた逃避的なファンタジーであり、彼の文学の本質はそこにはない。賢治自身の作家像も、岩手の田園風景と共に、ファンタジーやノスタルジックな物として語られるのも、おかしいのではないか。

・もし、『平家物語』を映像化するなら、実写でなら不可能なリアルな領域まで踏み込んで映像化できるのではないか。例えば、首を刎ねるシーンにおいても、実写化する際には、役者が演じるときにつきまとう身体性・同時代性が現在の倫理観を誘発することになり、ただ「首を刎ねる」といった行為へ残虐性を加味した非倫理的な価値観が付随してしまう。作品世界・当時の倫理観・価値観では、「首を刎ねる」という行為は、当たり前の価値観であり、首を刎ねる、人を殺めるという行為は日常的な行為ですらあった。それをアニメーションなら残虐性を含まずに映像化できないだろうかと考えている。

・映画はできれば映画館で見たほうがいい。しかし、中身の無い作品が全国公開され、アート系なんかではない、ポピュラリティを持つ質の高い作品が一部のミニシアターでしか見られないのはおかしいのではないか。

・「アルプスの少女ハイジ」においては、できるだけリアルな表現を目指したつもりだが、やはりファンタジーとして受け取られてしまった感がある。その轍を踏まえて「赤毛のアン」ではできるだけリアリズムを試みた。男性によるナレーションを行ったのもそれである。

・年長の女性が、能動的にアンに感情移入して見てくれたのは嬉しかった。

以下は、来場者の質問への応答より。

・「おもひでぽろぽろ」では、当時のバブルの世相を批判するつもりもなければ、農村を賛美するつもりもなかった。都会に住んでいる身として、農村への純粋な知的興味があっただけだ。

・「おもひでぽろぽろ」の、主人公である妙子のようなOLに私は同情している。自己・自分の過去の探ることは非常に大切だ。世間で使われている「自分探し」とは違い、自分を振り返り、後戻りすることで、人は前に進めるのだと思う。妙子を通して、自分はそれを伝えたかった。