下村治「経済成長と金融政策のあり方」(昭和三十五年十二月十三日)

  一、経済成長と金融のメカニズム

 経済が成長するということは、全体としての国民総生産が増加する、とくに国民一人当りの国民総生産が増加する、こういうことになるわけですが、経済全体の大きさの問題として考えていくときには、問題を簡単にして、国民総生産が増加するということで考えていいかと思います。その場合、いわゆる名目的な増加で考えるか実質的な増加で考えるかということが問題になりますが、われわれが一応標準として考える経済成長の場合には、物価は変化しないと考えるわけですから、名目で考えるのも実質で考えるのも、だいたいにおいて同じことになると考えていいわけです。そこでそういうような形で経済が成長する、そういう経済成長と金融との関係、これはどういうことになるかという問題をまず考えてみたいと思います。
 国民総生産がふえるときには、その国民総生産の増加に応じて金融的取引総量もふえるわけです。国民総生産が十二兆円であるとか、十四兆円であるとか、あるいは十六兆円であるというときには、その国民総生産実現の背景には非常に大きな金融取引があると考えてよいわけです。そこでそういうような国民総生産の膨脹が起こるとすれば、それに応じて金融取引も膨脹している、とこういうように考えなければならない。金融取引を単純化して、通貨の量とその回転速度の積、いわゆるMとVとの積であらわしますと、国民総生産が増加するときには、通貨量がふえるか回転速度が増加するか、その両方が増加するか、こういうようなことがなければならない。資本主義が成立し成長発展した過程をふり返ってみましても、経済が成長する過程において通貨の総量がふえるとか、その回転速度が増加するとかいうような形で推移してきた、ということがあるわけです。
 ただ現実の歴史的過程をふり返ってみますと、資本主義は最初商品貨幣から出発して、それからだんだんと金本位に移っていって、現在のような通貨制度に変おってきたわけです。この移り変わりをふり返って、資本主義が成立し発展する過程において、どういうことが金融的に行なわれていたのか、どういうことに非常な努力が払われていたか、ということを考えてみますと、経済の成長が金によって制約されるのをどうして解きほぐしていくか、どうしてその制約を緩和するか、という方向にいろいろな努力が重ねられてきたといえると思います。
 非常に昔の時代には金そのものをふやそうとしたわけです。国内で生産ができないときには外国から金をとりあげようとしたわけです。いわゆる輸出超過で外国の金をできるだけ国内に持ち込む。重商主義はその典型的な場合です。けれども、金本位になってからでも同じような思想、すなわち、できるだけ輸出超過して金の持高を増そうという思想が残り、これが今日まで日本でも非常に力強く残っています。
 すなわち、金ではありませんが、輸出超過でドルを貯め込もうという思想はだいぶ強い。これは非常に古い時代からの考えであるということがいえるわけです。金本位制を基礎にした中央銀行制度ができ上がったというのは、そういう金の効率を高める、いいかえますと通貨そのものを増すのではなくて、その回転速度を高めるようなメカニズムをつくり上げる、こういう効果をもったはずであります。また、中央銀行を中心とした近代的な銀行制度・金融組織が整備されていくということも、金を中心とした通貨の弾力的な増加を可能にする、信用通貨の創造によって通貨量の不足を補う、また、それの回転速度を高める、というような方向に工夫がこらされた結果ではないかと思います。通貨の発行制度につきましても、だんだんと発行の条件が緩和されていって、保証準備であるとか比例準備であるとか、ついろいろなことが考え出されたわけですが、その方向は要するに、金で通貨を拘束するとすれば経済成長に必要な通貨量が制約されて経済の実態に合わなくなる、それをどうしたら緩和できるか、ということが問題の根底にあったというべきではないかと思います。


   二、金本位制度から管理通貨制度へ

 金本位制度、近代的な金融制度の発展をふり返ってみて、金本位というのは、資本主義の発展過程において、それだけの歴史的役割を果たしてきたことは事実であり、非常に未熟な状態から近代的な成熟した経済に移り変わる過程において、それに相当する重要な役割を果たしてきたことは確かであります。けれども、その動きの中で非常に目だつことは、成長そのものは、金によって拘束されることによってではなくて、その拘束の程度を緩和することによって実現されてきたということではないかと思います。その方向が最後に行き着いたところが管理通貨制度ということではないか。管理通貨の思想では、金と通貨との関係が逆になって、金によって通貨は拘束されるということではなく、通貨は通貨として、経済の必要に応じて政策的な判断をもちながら調節をするという方向に変わったということだろうと思います。そういうような転換を促進したのは一九三〇年代の大不況だといってさしつかえないのではないか。政策的にも思想的にも一九三〇年代の大不況を転機として非常に大きな変化があったと思います。
 金に拘束された金本位的な経済思想で財政政策や金融政策が運用されていた長い時代の最後の時代に、世界全部が非常な不況に陥った、たいへんな失業が持続するような経済状態になった。一国だけではなくて世界中がそういう状態に陥った。なぜそういうことになったのか、なぜ生産設備があるのにその生産設備は動かないのか、人間が生存するのに必要なものが、なぜその人間に与えられないのか。そういった問題にたいする自覚と反省の中から、アメリカではルーズヴェルトニューディール政策が出てきたわけでしょうし、経済学の分野ではケインズの「貨幣論」、それからやがては「一般理論」といったような考え方が生まれてきたのではないかと思います。
 古典的な資本主義の時代には、いわゆる自由放任の経済思想が支配的で、経済は自由に任されるべきであるということが考えられていたわけですが、この考え方は、たまたま金本位と密接に結びついていた、という点で非常に特徴的であると思うのです。
 金本位というのは、要するに経済の活動総量が金の存在量によって拘束される。経済が成長するときには最初にいいましたように通貨量の増加が起こるか回転速度が増加するかしなければならないのに、それが金の存在量によってまず制約される。したがって経済の成長は、経済そのものの生産性その他の条件から必ずしも生まれなくて、外部的事情によって与えられた金の存在量によって制約されてしまう。そこでその間に金融制度が介入して若干の弾力性を与えますと、その弾力性が盲目的に働いて行過ぎや、行過ぎの反動が起こるといったようなことになるわけです。金の存在量に大きな変更が起こりえないわけですから、成長の速度は長期的にみると非常に制約されざるをえない。過去の事実は資本主義の成長率が年に二%とか三%という程度にすぎなかったということを示しているわけですが、そういう低い成長率しか実現できない、しかもその中で景気の循環というようなことが起こってブームになってみたり失業が起こってみたりする。本来、経済のメカニズムというのは、人間の考えとは別の存在であり、客観的な存在でわれわれがそれをどうしようということを考えるべきものではなくて、その流れの中でいかにうまいぐあいに流れに乗っていくか、それにいかに対処していくかという形でしか考えられない。そういうような状態であったと思うのです。マルクスが問題にした資本主義、現在もマルクス主義者が問題にしている資本主義の原型は、こういう資本主義だと思うのです。人間がコントロールできない姿の資本主義であるし、成長速度はきわめて緩慢に、金の存在量によって制約された資本主義、実際上は人口の増加率と比べてみますと成長があまりないのと変わらないような状態の資本主義、その中で経済内部のメカニズムによって景気循環が必然的に起こってくる資本主義、その行く先はあまりバラ色の状態ではない、どうなるかわからないというあんたんたる姿しか出てこない。そういうことではなかったかと思います。
 これはしかし結局は資本主義の本来のあるべき姿ではなかったということが自覚されたのが管理通貨以後の問題であります。経済が成長するかしないか、景気が循環するかしないか、これはただ単に与えられた外部的要因によって決定されることではなく、人間が目的を意識して行動することによって相当程度に調節できる問題だということが、政策の実践によってもわかりましたし、理論的な分析によっても証明された。これが第二次大戦前から、第二次大戦後にかけて展開してきた状況であると考えていいのではないかと思います。そこで古典的な金本位から離れて、管理通貨の原則が確認され、自由放任の経済が後退して、完全雇用政策が目標として掲げられるというような変化が起こったのではないかと思います。完全雇用政策が国の政策目標として決定的に登場したのは第二次大戦終了のときでありますが、アメリカの雇用法であるとかイギリスの雇用白書にありますように、はっきりと完全服用を維持することが政府の目的で、それは政府がやりうるんだというような思想が掲げられたわけです。こういう考え方が登場したところから、さらにもう一つの発展の契機が生まれたのだと考えられます。


   三、成長金融の要請

 完全雇用では、われわれの目的は必ずしも十分に満たされない。現在の状態で、現在の生産性、あるいは現在の生活水準の状態で国民が完全雇用の状態にあるとしても、それに満足する限りはそれでよいわけですが、進歩と発展の条件はそこにはないわけです。成長がなければ、これからさらに生活水準を高める、社会福祉の状態を改善するということはできないわけです。
 ですからそこから次の問題は当然に、いかにして成長を実現するかという問題に移らざるをえない。そういうような条件や問題点がはっきり意識されざるをえないということになったのだと思います。今日ヨーロッパで完全雇用政策とか社会福祉政策とかいっておりますが、経済政策はだんだんと成長を意識した政策の方向に変わっている。アメリカははっきりと五%の成長政策を政策の中心においており、イギリスでも成長政策を中心的な目標に掲げるような方向にいろいろな発言が出つつある、こういう状態だと思います。経済の成長を実現することを目標として、政策を考えなければならない。金融政策もそういう成長政策に即応するように考えなければならないことになるはずであります。
 ところが不幸にして、金融政策は金本位時代の金融市場をモデルとして生まれているのが実情であります。いろいろな考え方、いろいろな概念、いろいろな法則、そういうものが金本位時代に形づくられたまま受け継がれている。金本位時代の金融経済の特徴は、だいたいにおいてスタティックであります。金の存在量によって拘束された経済であり金融でありますから、論理的にそれを条件としてはっきりするときには、金の存在量が一定であるという前提で考えが整理されるわけです。いいかえますと、経済は変化しない、成長も発展もないのが経済の正常の状態である。そういうような前提からスタートせざるをえない。いろいろな問題の意識の仕方、いろいろな政策の立て方、そういうすべてのものが金本位的な金融論ではスタティックになっている。こういう金融思想で成長する金融を考えようとすると、非常に大きな無理が出るわけです。成長する経済に適応する条件というのは、その成長する状態に応じて考えなければならないはずですが、その成長の状態は、理論的に整理された形では考えられていないわけですから、その状態に応じた金融はいかにあるべきかということが、あらためて考えられなければならない。それが現在の金融の一つの根本的な問題点ではないかと思います。

 
   四、誤れる貯蓄投資均衡観

 日本の金融論の中で、とくに、金融界の実際的な金融論でありますが、従来まで非常に幅をきかしております原則は、金融は投資と貯蓄の均衡を原則としなければならない。別のいい方をすれば、投資は貯蓄の範囲内でまかなわなければならない。さらに別のいい方をすれば、市中銀行が日銀にたいしてオーバーローンの状態になっていることはきわめて不健全である、という見方です。この点が金本位的な、あるいはスタティックな金融論と成長に関する金融論との違いを一番はっきりきわだって示す点ではないかと思います。
 貯蓄と投資が均衡であるということは理論的にいってどういうことかといいますと、これは国全体としての有効需要が均衡状態を維持することであります。貯蓄、投資均衡の問題は一般理論でケインズが、これはトートロジィーであり恒等式であるといいましたことは、すでにご承知のとおりでありますが、貯蓄と投資が恒等であるというのが正しいのは事後的な統計の場合であります。経済が現実に動いて、その結果としてでき上がった経済の姿を過去の事実としてとらえてみるとき、それを帳簿に記載したときに、そこにあらわれる姿は複式簿記の原則に従って書けばいいわけですから、貯蓄は投資と同じという結論以外に何も生まれません。しかし、これは経済が時々刻々に動いている状態で考えますと、それでは実はわからないわけです。国全体としての有効需要が毎日毎日膨脹していく、月々日銀券が膨脹していく、毎年毎年国民総生産が一兆円も二兆円もふえていく、こういう変動の過程にある現実の経済の中で、その変動はどういうプロセスで起こっているか。有効需要の膨脹であるとか、日銀券の膨脹であるとかという事実は、どういうプロセスで起こっているか。これを事後的にではなくて事前的につかもうとすれば、貯蓄と投資は別ものになるわけです。(1)

 有効需要が増加するのは投資が貯蓄を超過するからであります。投資が貯蓄を超過する場合に、その超過に応じただけの有効需要の膨脹があってはじめて経済全体としての循環過程が完了するわけですから、経済全体として有効需要が膨脹している、GNPが膨脹しているといったようなときには、そのプロセスは現実に貯蓄を超過する投資が進行している過程であると考えなければならないわけです。
 ある時点における投資とその時点における貯蓄とのバランスは必ずしもゼロとは限らない、これが現実の経済である。で、その場合に投資が貯蓄よりも大きいときには、それだけ有効需要がプラスになり、投資が貯蓄よりも小さいときには有効需要はそれだけマイナスになるのであります。そしてそれがどういうような変化をたどるかによって、有効需要の上昇が続くのか続かないのか、という違いが出てくるわけで、有効需要の上昇が止まったというときには、その時点において投資と貯蓄とは等しくなっているわけであります。いいかえますと、経済が成長するということは本質的に投資超過の経済であるということでありまして、投資が貯蓄を超過しないような条件を強行するときには、その経済の成長は起こらない、有効需要の増加は起こらないということであります。したがって、金融的に貯蓄の範囲内で投資をすべし、そういう経済が望ましい経済であるということは、成長がない経済が望ましいといっているのと同じことであります。
 金本位の時代にはそのとおりだったわけです。金本位の時代には金が増加しない限り成長のない経済でなければだめです。成長が起こりますと、金の存在量以上の金融的膨脹、経済の膨脹が起こりますから、やがて金は流出せざるをえない。その国の金の存在量が減るとすれば、金本位の原則では金融は収縮し経済も収縮せざるをえない。そういうことが起こらなければならないわけですから、そういう条件のもとで望ましい状態は、投資と貯蓄が常時バランスしていなければならないということになるわけです。いいかえますと、経済は常時横ばいの状態を維持していなければならないということになります。金本位的な思想、あるいはスタティックな金融論で考えていくと、いかに不合理な結果になるかということが、ここではっきりと出てくると思います。


   五、物価安定の条件

 従来のいわば伝統的といいますか常識的な金融論では、貯蓄の範囲内で投資を抑制しなければ、それだけ物価騰貴の条件が生まれるということであります。貯蓄・投資均衡論というのは、物価問題についてはそういうような主張になるわけです。しかし、物価の問題は投資と貯蓄ということだけからは答えは出ないわけです。いうまでもなく、物価というのは総需要と総供給との比率ですから、ただ単に投資と貯蓄をもってきただけでは、総需要と総供給の関係が決定されるということにはなりません。先ほどもいいましたように、貯蓄と投資は有効需要の増減を決定する要因であって、供給の多少はそれではわからないわけです。普通の説明は、そのバランスがすなわち供給力のバランスであるかのようにいう場合もあります。また、貯蓄は供給の余力であるという場合があるわけですが、これは事後的な概念構成で、事後的に合計された貯蓄はこれに見合う対象物が存在するということをまちかって考えたものであります。
 貯蓄という購買力の処分の動きと投資という購買力の処分の動きと、それから生産という生産要素を結合し、それを稼動する要素とは、それぞれ違っているわけです。生産活動によってはじめて生産が生まれ供給力はそこから生まれるわけで、その供給力は生産能力がいくらあるか、それをいくら稼動するかということで、そのときいくら貯蓄されているとか、そのときにいくら投資されているかということと、直接の関係はないわけです。そこで貯蓄と投資とのバランスで出てくる問題は、有効需要の増加がどれだけあるかということだけです。
 貯蓄と投資がバランスしているときには有効需要の増加はゼロですから、その条件で物価も安定しているというときには生産量の増減があってはならないわけです。いいかえますと、貯蓄、投資はバランスしながら物価が安定であることが金融的安定の理想であるということを物価政策の面、金融政策の面で主張するということは、生産量はふえてはいけないということを主張していることに帰着するわげです。いいかえますと、成長が起こってはならないという条件を要求しているということになるわけです。(2)

 物価安定のもとで成長するということは、この場合⊿Pがゼロのままで⊿Dがゼロよりも大きいということです。したがって、このようにして成長するということは、有効需要の増加Dがプラスであるということになります。つまり、前の物価水準に生産総量の増加を掛け合わせた大きさだけ有効需要が膨脹するということになるわけです。そこでかりにこの状態を通貨と結びつけて考えますと、有効需要が全体として膨脹するときには、それに応じて通貨量の膨脹も起こるわけです。通貨金融取引の総量の増加と有効需要の増加とは等しくなるわけです。
 経済が物価安定のまま成長するときには、生産数量、あるいは実質所得の増加率と同じ割合だけ通貨金融取引総額がふえなければならないわけです。回転速度が一定であるという前提をここで入れますと、この関係はもっと簡単になってくる。経済が物価安定の条件で成長するためには、生産量の増加率と同じ割合だけ通貨量は増加しなければならない。それはわかりきったことですけれども、こういうことは金本位的な金融論からいうと、とんでもないことのようにみえるわけです。生産がふえるときには、それに応じて通貨量はふえなければならない。ふえるのが成長のための不可欠の条件である。あたりまえのことなんですけれども、金融のいままでの考え方からいうと、たいへんな、どこかに穴がありはしないか、というようなことになりますが、どこにも種も仕掛けもないわけです。


   六、資本蓄積と資金需給

 通貨がふえるのは、貯蓄にたいする投資の超過によってふえるわけです。その貯蓄にたいする投資の超過によって経済は膨脹する。その経済の膨脹が生産の増加速度と同じであれば物価は安定である。こういうつながりが出ておりますが、成長政策の中でいったい資本蓄積の問題はどうだろうか。この問題は実はそれほどむずかしい問題ではない。むずかしいようにみえるのは、成長過程における資本蓄積の問題を理解するには、成長経済そのものを、いまいった形で理解しなければだめだというだけのことであります。金本位時代のスタティックな経済を前提とした貯蓄・投資均衡論のような金融論で成長経済の貯蓄・投資の問題を理解しようとすれば、ここにはなんの解答もえられない。成長経済が進行するということは、先ほどいいましたように、貯蓄を超過する投資が不可欠の条件で、貯蓄を超過した投資がなければ、成長経済を物価安定の状態で維持できないわけです。いいかえますと、経済全体としては経済が成長過程にある限りは貯蓄不足であります。貯蓄不足は不可欠であるということであります。貯蓄不足であるということは、民間の金融市場では常に資金不足であるということであります。いつも日銀の供給を仰がなければならない状態にある。普通に行なわれている金融論では、この資金不足という問題と、資本不足あるいは蓄積不足が混同されているようです。資金不足の状態ということと、経済の現実の蓄積不足の状態とは別です。
 資金不足は、現金決済のための資金が追加されなければ経済が膨脹できないという単純に資金的な面が間題です。それは信用創造日本銀行の資金創造によってはじめて解決される、それがなければ経済の成長は実現できない。が、そういう形で貯蓄を超過する投資によって経済が膨脹するときに、経済の蓄積力、経済の現実の物的な蓄積力というのは資金とは別の面で進行しているわけです。蓄積ということは事後的な貯蓄と同じことになりますが、消費されなかった生産物が蓄積になるわけです。消費されなかった生産物が蓄積であって、したがって、その蓄積の限界をまず制約するのは生産力です。生産力が働いて生産物が生まれ、その生まれた生産物の中でどれだけが消費されたか、その数量が決まりますと、残りは蓄積になるわけです。したがって、限界消費率を一定の状態で考えますと、生産がふえればふえるほど蓄積はふえるわけです。それは資金が足りるか足りないかということとは関係なしに、生産がふえればふえるほど蓄積はふえていくわけです。いいかえますと、蓄積を増加するのは資金ではなくて生産力であるということになります。生産力が大きくなればなるほど、その経済は強い蓄積力をもった経済になる。ロストウは、資本主義がいわゆる成熟段階にはいっていけば資本主義は自動的な蓄積過程にはいり、自動的な成長過程にはいるとこういっておりますが、その根底になるのは生産力です。生産力が資本の蓄積によって強化され、強化された生産力の中から、いままでよりもよけいに大きな部分が留保される、蓄積された生産力は、追加的な生産を生み出す。これは雪だるま式に資本の力をふやすわけです。
 そういう雪だるまの進行の根底にあるのは生産力・設備能力でありまして、その設備能力が稼動すれば、そこで蓄積がふえる。そのプロセスが円滑に進行するためには、とくに物価低下を起こさないで円滑に進行するためには、金融の面では資金の創造が必要になってくる。金融面では、信用の創造によって日銀が追加的な通貨を経済に注入する措置をとっていかなければならない。そういう条件が一方にあって、はじめて蓄積力の強化、蓄積の増加が進行するということであります。そこで資金の不足と蓄積の増強とが実は矛盾するものでもなんでもなく本来そうあるべき問題である、それではじめて高い成長と高い蓄積と、そして民間における資金不足、中央銀行の信用の創造の必要というものが、統一的に理解されることになるのではないかと思います。


   七、金利機能の反省

 金利は資金の需要と供給によって決まらなければならない、これは人為的に動かすべきものではない、といったような形でよく議論されます。この考え方そのものの発祥は、やはり金本位的な静態的な経済論です。資金の需要と資金の供給とを、与えられたものとみて、その状態がある状態からはずれているときには、金利が上がらなければならないというのは、金利が上がることによって資金需要の超過は消されなければならないということになります。資金需要が供給を超過しているのは望ましがらざる状態である、あるいは均衡状態からはずれた状態である、したがつて金利が上昇することによってその状態は是正されなければならない。いいかえますと、資金需給のバランスによって金利は決まるべきであるということから進んで、資金需要が強ければ金利は上がらなければならないという政策的な判断を導き出すのは、金融市場は膨脹してはいけない、現状を維持しなければならないという前提があってはじめて是認されることになる。したがってこれはスタティックな金融原則からしか出てこない原則であるということになります。
 もう一つ、やや違ったいい方は、資金需要が強い、あるいは投資需要が強いのは、要するに資本の限界効率が高いか、あるいは予想収益率が高いからだ、ということでありますが、こういういい方は少し形が変わっておりますけれども、やはり本質は同じことです。資本の限界効率が高いとか予想収益率が高いということは、投資誘因を強くする要因である。これはまちがいないことで、そこで問題は強い投資誘因が、そのまま働くべきか、これを殺すべきかという政策的判断が出てこなければならないということになりますが、いかなる場合にも、それに応じて金利が高くなければならないということは、投資誘因が金利によって相殺されなければならない、ということになるわけです。金利によって投資誘因を相殺すれば、それだけの投資誘因はなくなるわけですから、投資計画、新しい事業計画はそこで止められてしまうということになります。
 すなわち、限界効率が高いのに応じて金利は高くなければならないという原則を考えるとすれば、そればかりに投資誘因が強くても、その強い投資誘因が働かないような経済にもどしてしまわなければならないということに帰着する。いいかえると、経済は現在の状態から動くべからず、という前提からしか出てこない考え方であるということになるわけです。
 ヒックスの図解を借用してこの関係を説明してみましょう。ヒックスは貯蓄投資曲線SIと流動性曲線Lとを第2図のように構成して、その交点Pにおいて所得Yと利子率rとが同時に決定されることを示しています。

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 この場合、完全に固定的な通貨制度、すなわち通貨供給量は全然変化しないというようなシステムを考えますと、垂直の流動性曲線I’になり、逆に完全な弾力性をもった金融制度を考えますと、これはこのまま、横に引っぱったような状態L''になるわけです。そこで金融制度が硬直的な状態であり、通貨が現在の存在量以上に一円たりとも増加しないというような制約された状態でありますと、がりに投資誘因が強くなるSI’と、これは資金需要が強くなったということと同じだと思いますが、その場合はそれに応じて金利は必ず上がらなければならない(P’)。つまりPP’だけ必ず上がるということになります。この場合には所得の増加は起こりません。
 ところがそれ以外の可能性はないかというとそうではなくて、金融制度が無限の弾力性をもった場合は、前の金利水準のままで所得の増加をするということになります(P’’)。その場合は経済成長がPP’だけ起こっているわけです。経済成長の増加に関連して投資需要あるいは資金量がふえますけれども金利は変わらない。したがって、その効果は完全に所得の増加としてあらわれる。
 これら二つの限界的な場合を比較すればわかりますように、資金需要がふえたときには、それに応じて金利が上がらなければならないといういい方は、経済は成長してはならないといういい方と同じであります。この場合、投資誘因は高くなり、資金需要がふえて投資曲線は高くなっておりますけれども、金利が上がって所得は前と同じです。このように、資金需要がふえれば金利の上昇で消さなければならないということは、所得はふえてはならないということと同じです。逆に資金需要がふえても、その需要の増加は、すべて金融されなければならない。そういう原則でいきますと、資金需要の増加はそのまま所得の増加になって実現されるという結果になります。
 どちらが望ましいかということは経済の実情によって決まることでありますが、その実情というのは、経済が実質的に成長する条件をもっているかどうか、いいかえますと、物価騰貴を起こさないで資金需要の膨脹、有効需要の膨脹を吸収する条件をどの程度まで備えているかということによって違いが出てくると思います。そういう条件があるときは、経済が健全な成長力をもっているということでありますから、そのときに必要な原則は、資金需要がふえたからといって、その需要の増加が金融の拘束や金利の上昇によって対処されるべき問題ではありえないということだと思います。


(1)有効需要の膨脹が貯蓄投資のバランスとどういうように関係するかということを証明しますと

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(2)総取引額を物価水準と供給量との積としてあらわすと

D=PQ
となります。(ただし、D…有効需要、P…物価水準、Q…実質供給量)
したがって、それぞれが変化するときは
⊿D=⊿PQ十⊿P⊿Q
となりますから
⊿D=0
⊿P=0
とすれば
⊿Q=0

(昭和三十五年十二月十三日、富士銀行金融経済研究会議事録)

2003年高畑勲トークショーメモ

高畑勲氏の講演内容です。眠らせておくのも何なのでここで公開。具体的な日時は忘れてしまったのですが、2003年の春頃、場所は東京都写真美術館。聞き取りを元に再現したので細部に間違いがあるかもしれません。あと、もし権利問題が派生したらすぐ消去します。

・日本のアニメーション、及び最近のハリウッド映画(例えば、近年のスピルバーグ作品等)では、子供を主人公にした作品が非常に多い。

・そこで描かれる子供は非常に理想化されており(一種の超人である)、主人公である子供は、大人社会に当たり前に出ていき、大人顔負けの活躍をする。

・その子供に対して、30を超えた大人達は当たり前に同化・感情移入している、これはちょっと異常なことではないか。一種の無垢的な存在である子供を主人公に据えると、簡単に感情移入・同化することができ、観客の能動的な思考能力を奪うことが多く、麻薬的であり、危険な物ではないだろうか。

・かつての、日本やアメリカのヒーロー像は、大人(月光仮面・スーパーマン)であった。日本は戦後政策の中で新しい世代(子供)への過度は期待感から、アメリカにおいては、ヴェトナム戦争以降に、西部劇がまったく作られなくなり、ここでも若い世代を主役に添えた作品が多数作られることとなったのではないだろうか。

・『千と千尋の神隠し』は、究極の巻きこまれ型ファンタジーである。主人公である千尋に感情移入することで、楽しむことが前提となっており。映画内での表現・事象に論理的な裏付けを持たない。千尋に感情移入できない観客はこの映画を楽しむことはできないだろう。

・アニメーションに関わらず、映画等においても、「感情移入」が一つのポイントとなっており、「感情移入」をさせてもらえない作品には「させてもらえない」ことで批判されたりさえする。「感情移入・同化」して、ただ受動的に「泣く・感動」といった作品が増えているのには危惧をおぼえる。これはディズニーランド等の、テーマパークのようでもある。

・映画に対して、能動的に考える、感情移入するにしても能動的に移入するといったことが大事なのではないだろうか。作品に対して自分から考え、批判的・客観的に見ることが大切であり、本当に感動し泣ける作品は、そういった態度を通しても泣けるものだ。

・「巻きこまれ型」「感情移入型」の作品の中で理想化された登場人物により、安易に「理想」・「夢」が語られるのにも危険だ。そこでは理想と現実との対比がまったく描かれていない。昨今の話題の「引き篭もり」問題は、こうした社会のあり方に問題があるのではないのか?逆に「プロジェクトX」のような単純な現状肯定にも批判的だ。

・アニメーションの絵(セル画)は基本的に、線(輪郭)だけで形作られている。輪郭だけで形作られた物は、基本的に何かの現物の模した物としての存在から離れることはない。現物の記号・影としてしか存在しえない。逆に3DCGには輪郭が存在しえない為、それは現物として存在する。これが手書きとCGとの大きな差である。そういった中で安易に3DCGが使われすぎている。日本の絵・絵画は伝統的に、線画として存在している。アニメーションもそれを受け継いでいる。

・線画は、輪郭があり対象の現物を模した物としか存在しないが故に、人はそれに対して想像を働かせ、感情を安易に移入することができる。

・昨今のアニメーションの背景の絵は異常に写実的・精密になって立体感がある。想像を誘発する線画の人物と、想像の余地がないほど写実的に書かれた背景が共存する時、前述の巻きこまれ型ファンタジーとしての作品に成立に一役かっていないか。

・演劇を思い出して欲しい。「なんて美しい花!」とセリフがあっても、その場に美しい花があるわけではない。そうして観客が想像することが大事ではないだろうか。しかし、今のアニメーションや実写映画においては、現物以上に、美しい花を描き、写してみせる。

・今、『キリクと魔女』というフランスのアニメーション映画の翻訳・吹き替えの仕事をしている。作品では、主人公キリクは、映画内のさまざまな局面で「なぜ?」、「どうして?」を問いかける。人は、何事にも疑問や知的好奇心を持つことが大切ではないだろうか。これは、原始的なフォークロア、民話で基本的に大切にされてきたものだ。

・巻きこまれ型のファンタジー作品では、観客に疑問を持つことが許されない。例えば何かが空を飛んでいても、なぜ空を飛ぶのかとの疑問に、「その作品の世界として成立しているから」としか答えられない。映画だけの話ではなく、子供の教育に立ち帰っても、子供に考える行為を行う教育がなされていないのではないかと思う。先日、デジタルモンスターの映画を見たが、作品の世界観では空飛ぶ怪物があたりまえに存在していて驚かされた。

・ピクサ―の作るアニメーションは非常に評価している。彼らの作る作品は、主人公に感情移入を行わせながらも、同化を阻むように作られている。それは、ピクサ―の作品では、人間を主人公にしないことに現れている。

・『ホーホケキョ・となりの山田くん』は、連歌をモティーフに、原作の短編エピソードを並べることに精神を費やしたので、TV放映でCMが挿入されてしまうと、映画としての要素が打ち消されてしまう。

・『ホーホケキョ・となりの山田くん』はこの後も愛される映画になると信じている。

・映画の企画は、宮沢賢治の映画化か『平家物語』を考えている。「無情感」を表現したい。

・「巻きこまれ型ファンタジー」の話にも関連するが、宮沢賢治の作品もそういう風にに受け取られているのにも危惧を感じる。例えば、『銀河鉄道の夜』、『よだかの星』は彼が初期に書いた逃避的なファンタジーであり、彼の文学の本質はそこにはない。賢治自身の作家像も、岩手の田園風景と共に、ファンタジーやノスタルジックな物として語られるのも、おかしいのではないか。

・もし、『平家物語』を映像化するなら、実写でなら不可能なリアルな領域まで踏み込んで映像化できるのではないか。例えば、首を刎ねるシーンにおいても、実写化する際には、役者が演じるときにつきまとう身体性・同時代性が現在の倫理観を誘発することになり、ただ「首を刎ねる」といった行為へ残虐性を加味した非倫理的な価値観が付随してしまう。作品世界・当時の倫理観・価値観では、「首を刎ねる」という行為は、当たり前の価値観であり、首を刎ねる、人を殺めるという行為は日常的な行為ですらあった。それをアニメーションなら残虐性を含まずに映像化できないだろうかと考えている。

・映画はできれば映画館で見たほうがいい。しかし、中身の無い作品が全国公開され、アート系なんかではない、ポピュラリティを持つ質の高い作品が一部のミニシアターでしか見られないのはおかしいのではないか。

・「アルプスの少女ハイジ」においては、できるだけリアルな表現を目指したつもりだが、やはりファンタジーとして受け取られてしまった感がある。その轍を踏まえて「赤毛のアン」ではできるだけリアリズムを試みた。男性によるナレーションを行ったのもそれである。

・年長の女性が、能動的にアンに感情移入して見てくれたのは嬉しかった。

以下は、来場者の質問への応答より。

・「おもひでぽろぽろ」では、当時のバブルの世相を批判するつもりもなければ、農村を賛美するつもりもなかった。都会に住んでいる身として、農村への純粋な知的興味があっただけだ。

・「おもひでぽろぽろ」の、主人公である妙子のようなOLに私は同情している。自己・自分の過去の探ることは非常に大切だ。世間で使われている「自分探し」とは違い、自分を振り返り、後戻りすることで、人は前に進めるのだと思う。妙子を通して、自分はそれを伝えたかった。

ジョセフ・ヒース『トランプ大統領についての省察』

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